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連想ゲームと「人間関係」

 どうも、お久しぶりです、凪です。今回も脈絡のない記事を書いていこうと思います。

 

 最近ココのメンバーとは違う人達と連想ゲームを嗜んだんですが、そこで思った話です。「連想ゲーム」で検索したところ、違うものが多く出てきてしまったので今回はルール説明挟みます。 

 

連想ゲーム

一、全員を何人かのグループに分ける。

二、ゲームマスターがあるお題を出す。

三、各グループでそのお題について考えられるものをフリップに書く。

四、最後にフリップを開く、一番多く書けた人が勝利。

 いたって、シンプルで、考察の仕様のないゲームになりますが、実は案外そうでもなかったりします。宴会ゲームなのでルール厳密にする必要なんてないので仕方ないのですが、このルールには案外曖昧性が大きく、答えとなるものが相当でてきます。当然、そういうゲームなので、時間設定はあるのですが、それにしてもです。

 

 例えば、春と言って、なにが思い浮かびますか? 梅、桜、入学式とか、一段階の連想が一番多いとおもいますが、実は、連想という論理活動において、元の言葉と、連想された言葉との論理関係は必要条件でも十分条件でも両方よいわけです。なので、

 

春 → 桜 → 桜の樹の下には死体が埋まっている → 梶井基次郎

 

と続いて梶井基次郎と答えてもよいわけで、知識のサラダボウルライターのざっきいに聞いたところ

 

梶井基次郎 → 檸檬 → ビタミンC → 鈴木梅太郎 → 理研 → 神戸 → ポートタワー → 海 → ドビュッシーの交響詩

 

と、来て、ドビュッシーの交響詩と答えることも出来ます。しかし、実際問題、ゲームマスターがこれを理解できるかどうかは極めて疑問であり、なにより、この論理構造をいちいち説明することは宴会を冷めさせてしまいます。

 

 つまり、なにが言いたいかというと、このゲームは仲の良いグループの宴会ゲームとしては最適だということです。どういうことかというと、どこまで連想させて答えにするかということは空気を読めるかどうかということだからです。逆に言えばその人達のことをどれだけ理解しているかも自分の中で分かってしまうので恐怖のゲームとも言えますが。

 

 少し前、KYという言葉をよく耳にしましたが、日本人は(これに限るかは謎ですが少なくとも)その場の雰囲気の変化に非常に敏感です。敏感肌です。今では人間関係においてKYの代わりにコミュ障という言葉が使われることが多いですが本質的には同じです。結局今回の連想ゲームはコミュ障かどうかも明らかに出来ます。僕の場合、春と聞いてノータイムで梶井基次郎だした結果、えらいことになり、重度のコミュ障判定を受けたわけですが。ただ、僕はコミュ障はそんなに悪いことだとは思っていません。コミュ障がこれをいうと、コミュ障な上に自己本位と後ろ指を指されることとなるでしょう。ただ、実際僕みたいなコミュ障でもこの人だったら闇を吐いても大丈夫だと思え、心から尊厳できる友達は複数人います。経験上コミュ障の人のほうが、自分の生きたい道を進んでいる気がします。(偽相関の可能性もありますが。)コミュ障の人というのは普通から逸脱している部分があるので、将来研究や商売など少しいままでと変わったアイデアが必要な職場に向いているかもしれません。結局のところこれも一面的に物事を見すぎるとその人のきらっと輝く部分が全く見えなくなってしまうということの良い例だと思います。僕は、大学生になってからそうやって人の良いところが見つけられるように生きようと思っています。欠点だけをみて切り捨てていったら悲しすぎるので。

 

連想ゲーム → コミュ障 → コミュ障に関する考察 → 物事は多面的に考察するべき

 

でした。