指揮者とリーダーシップ(1)

(著)ざっきぃ

 

 クラシック音楽が好きだというと決まって、「楽器やってたの?」と聞かれる。確かに経験上、「クラシックが好きだ」と公言している人の大半が、いや、ほとんどが、小さいときからピアノやヴァイオリンを習っている。過去の名録音を漁るのも、大概が自らの練習の参考にするためという、言わばリファレンス的な目的である。多種の娯楽が溢れる現代において、クラシック音楽をわざわざ取り出して聴こうとする動機も、それくらいしかないのだろう。

 

 しかしながら、「楽器をやっていた人」が聴くクラシック音楽は、どうしても「自分の演奏する楽器の模範的な演奏」が優先されやすい。彼らにとって、私の好きな「フル・オーケストラによる音楽」はぴんとこないようだ。私はといえば、楽器どころか歌もままならないような人間なので、どんな音楽を聴こうが何のしがらみもない。負け犬の遠吠えかもしれないが、この点に関してはささやかな誇りを抱いている。

 

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 なぜオーケストラに魅力を感じるのか。過去の記事で、クラシックというのは楽譜を個々の演奏家が解釈する、二次芸術だという話をした。ピアノやヴァイオリンのソロならば、もうそれは完全に、一人の演奏家の頭の中の世界である。弾き手は曲の世界観をどう自分の側に引き寄せるかを考えに考え、それに少しでも近づくよう練習を重ねる。室内楽(ピアノとヴァイオリンとチェロが一人ずつ、など)の場合も、演奏者間でのすり合わせこそ困難なものの、大枠にそれほどの違いはない。ところが、オーケストラとなると、事情がかなり変わってくる。

 

 それは、「指揮者」と呼ばれる役職の存在による。オーケストラには、少なくとも50人、多ければ100人を超えるメンバーが在籍する。コーラスが入ると、舞台の上にいる人数はさらに二倍、三倍と増えるだろう。それだけの人間が一斉に音を出し、音楽をやるとなると、これは大変なことである。何が大変かというと、一人一人が曲を解釈する余地が与えられないのだ。最も分かりやすい例はテンポで、全員が頭の中に違うテンポを思い浮かべていたとしたら、必然的に音楽は瓦解していく。また、これだけの大人数になると、メンバー内でコミュニケーションを図るにも、限界がある。

 

 そこでメンバーは「解釈」の部分すべてを、「指揮者」と呼ばれる人に委任する。一時間近くある交響曲で、どこの部分をどんなテンポでやるか、メリハリをどう付けるか、各楽器の連携はどうするのか、全て指揮者一人が決める。それ以外の楽員たちは何をするかというと、指揮者が出す指示に徹底して従うのだ。言わば、指揮者が楽曲のプロデューサーで、実際に音を出している弾き手は、技術的な側面から指揮者の解釈に花を添える、テクニシャンなのである。

 

 となると、オーケストラ演奏というのは、単なる演奏家の解釈だけで済まないということをご理解頂けるだろうか。「解釈者」たる指揮者が楽曲を考察し、自分なりの世界を繰り広げただけでは、音楽にはならない。それに加えて「人前に立って自分の世界観を説明し、それを実現してもらう」という、極めて人間的なプロセスが必要なのである。言い換えれば、ピアニストやヴァイオリニストとは違い、指揮者は「解釈者」であるにもかかわらず、その解釈を自ら結実させられない。それを他人にコミュニケートし、「やってもらう」ことをしなければ音楽を作れないのだ。権力者である反面、極めて非力な存在と言えるだろう。当然、伝達は「人と人」の間で行われるので、感情が入ることもあれば、齟齬が生じることもある。それによって音が如実に変わっていく。テクニシャンだって、一人のれっきとした人間なのだから。ここに、オーケストラ芸術の奥深さと、難しさがある。

 

 十人十色の個性を最大限に生かして、団体として最高のパフォーマンスを生み出す。指揮者というのは、単なる一芸術家に留まらない、「リーダー」としての側面を持つことがわかる。では、どのような人間が、「リーダー」たりえるのか。次回は具体例を出しながら考えていきたい。