二次的な芸術

※この記事は、前回の記事「問いかけ。」の続きです。まだご覧になっていない方は、先にお読みになった方がより楽しめると思います。

 

ざっきぃです、こんにちは。

 

早速、前回の答えを書きたいと思います。僕が考える、クラシック音楽とその他の音楽の根本的な違いは、

 

ポップスには、その曲を定義付ける演奏が存在するが、クラシック音楽には存在しない。

 

ということです。どういうことかよくわからないと思うので、具体的に説明します。

 

映画「君の名は。」で話題になったRADWIMPSに、「有心論」という曲があります。あなたがこの曲を、何か大事なイベントで流したいと思ったとします。どの音源を使いますか?アルバムを買ったり、スマートフォンのアプリから購入したり、YouTubeのMVをダウンロードしたり、曲を手に入れる手段は様々でしょうが、多分10人いれば10人ともが、同じ演奏(2006年に野田洋次郎さんがレコーディングした演奏)を流すと思います。YouTubeにあがっている、おじさんのカラオケを使う人はまずいないでしょう。

 

でも、「有心論」は非常に有名な楽曲で、多くのアーティストによってカバーされています。Mr.ChildrenやONE OK ROCKといった大物もこの曲を歌っていますし(ミスチルのカバーはネットにも上がっていますが、本当に素晴らしい歌唱です)、もちろんRADWIMPS自身も、何度もライブで披露しているでしょう。それらの音源も、広く世に出回っています。なぜそれらの演奏は使われないのだろうか?

 

ポップスにおいて新曲が出るときには、演奏者が自ら吹き込んだ録音を公開します。この録音は、その曲にとっての絶対的な存在で、言わば「バイブル」のようなものです。「ミスチルの『HANABI』が好きで、何回も聞いているんだ」とか、「安室奈美恵の新曲聞いた?すごいよね」とかの会話の中で、楽曲が指す演奏は一つしかありません。もちろん、曲が市民権を得ていくにつれ、ライブで歌われたり、他の歌手にカバーされたり、ということも増えるでしょう。しかし、あくまでそれらは「オリジナルの録音」をベースに再構築した演奏です。いくらミスチルによる「有心論」のカバーが素晴らしくても、この演奏が本家本元のレコーディングに取って代わることはまずありえません。初出の際の録音が、曲を定義付ける、唯一無二の演奏だというわけです。

 

何か当たり前のことを並べ立てたようですが、クラシック音楽の場合はどうでしょうか。ベートーヴェンの「第九」を例にとって上と同じ状況を考えてみると、10人ともが同じ演奏を音源に使う、ということはありえないです。それもそのはずで、ベートーヴェンは「第九」の模範的演奏を残していないのです。彼の死後に残されたのは楽譜だけで、それを各々の演奏家が「解釈」して奏する。「第九」の演奏は世の中に100種類以上ありますが、「第九」を定義付ける唯一の「バイブル」的な演奏は存在せず、いずれも「間接的な」演奏なわけです。

 

すなわち、ポップス演奏が「一次的」な芸術だとすれば、クラシック演奏というのは「二次的な」芸術なのです。クラシック音楽の新譜が出たときに、「これはどんな曲なんだろう?」と思って購入する人はいません。曲そのものは何百年も前から存在していて、それを「どういう風に解釈したのか」を聞くために購入するのです。一つの曲に対して、演奏の仕方はそれこそ無限に存在するので、クラシック音楽が好きな人は、同じ曲のCDを10枚も20枚も持っています。

 

このように考えると、クラシック音楽が「古びない」訳がわかります。ポップスを聞くということは初出の演奏を聴くということなので、演歌をイメージしてもらえばいいと思いますが、時が経ち演奏のスタイルが時代に合わなくなった瞬間に、消えていきます。これに対してクラシック音楽は、時代に応じた解釈のアップデートが可能です。ベートーヴェンの交響曲も、昔は華麗で情熱的な演奏が主流でしたが、最近になって、感情移入をしない淡白な演奏が流行っている、というように、たった一つの楽譜から、新しいことがいくらでも出来るのです。この「二次性」こそが、ポップスはおろか、映画や文学、絵画といったほとんどの芸術形態が持たない、クラシック音楽固有の特徴だと考えます。

 

またこのテーマに関しては掘り下げたいと思いますが、今日はこのへんで。