年賀状の話し

最近、どんどん気温が下がってきてますね。どうせ下がるなら雪降ってほしいと思いつつ、公共交通機関遅れるとだるいなとも思う凪です。今日もまたまとまらない話をします。新しい小説を読んで、何も考えずに文章を書きたい気分なので。どうか最後までお付き合いください。

 

もうそろそろ平成も30年ですね。そうなるとそろそろ書かないといけなくなってくるのは年賀状。ただ、いつも思うのですが、年賀状って、日本人のせっかちな部分が見えるものなような気がします。というのも、まだメリークリスマスを言ってもいない時期に手紙の上では一週間後を見越して「あけましておめででとう」や「謹賀新年」をしるす、のほほんとした一島国でみせる日本人のせっかちな部分かなと思い、いつもほほえましく思います。

 

というか、「一年の計は元旦にあり」という言葉があるようになんだか日本の古来の人はどうしてか元旦や新年がからむとせっかちになってしまうみたいです。冷たい言い方をすれば、次の1月1日は2018年の365日の内の一日ですが、カウントダウンと称して1時間以上前から新年までの時間を数えてみたり、初詣という名のもとに、夜中から多くの人が神社に繰り出していったり、普段みないであろう朝日をわざわざ犬吠埼灯台まで行って、日本で一番初めに初日の出を見ようとしたり。「せっかち」というか、「クリスマスをサンタさんからのプレゼントを心待ちにしている子供たち」と同じ心境というべきでしょうか。どれもやはり新しい一年への希望を抱いて心待ちにした結果、生まれた行動でしょう。偽善的愛国主義と言われるかもしれませんが、言論の自由を行使してこういいます。僕はそんな日本が好きです。

 

高校生の時、知り合いが、数多くの年賀状で、出す人それぞれのイメージで1つ1つ文面やデザインを変えていると言っていて大層関心した記憶があります。貰う人は、友達がこうやって思ってくれているのかを知るという楽しみがあっていいだろうと推察されます。そしてもし相手が普段なかなか会えない人だったならば、書き手の字やデザインや住所を見て今何してるのかなと予想する楽しみもあります。またさらに書く人もちょっとでも、1人1人文面を変えると書きながらその人との去年の思い出や去年の自分が思い出される気がしますよね。「未来へ送る手紙を書くということを通じて、過去や現在を思い起こす。」1年に1回しかないというその限定性と、1月1日にちょうど相手の家に着くようにするために出さなければいけない日にちの問題、このSNSや電子メールが発達した中はがきで送るというアナログ性がこれを成立させているように思います。

 

本当はもうちょっと長々と書く予定だったのですが、結局ウザがられるだけな気もするので、ここいらでお開きにしようかなと思います。結局何が言いたいかと言いますと、年賀状は1年に1回の事なので、書いてみませんかって話でした。