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フロンティア軌道論とHOMO・LUMO

(著)山たー

フロンティア軌道論

有機電子論とフロンティア軌道論

元々、化学反応を説明していた理論は有機電子論(electoronic theory)でした。有機電子論というのは、有機化学反応を「電子の動き」として解釈しようというものです。この理論は量子化学の考えを取り入れていませんが、それは構造論(分子の構造を考えること)に比べて反応論(分子の反応を考えること)に量子化学を適用することが困難であったためです。

 

しかし、後の具体例のように、有機電子論では説明のつかない反応が出てきました。その原因は、先ほど言ったように、有機電子論が量子化学を考慮していないこと、つまり、電子の波動性を無視していることに基づきます。

 

そのため、化学は「量子化学に基づく反応論」を手に入れる必要がありました。そこで、福井謙一先生が生み出したのがフロンティア軌道論(frontier orbital theory)です。今回は、このフロンティア軌道論の考え方を見てみましょう。

 

フロンティア軌道論の概略

フロンティア軌道論では最高被占軌道(Highest Occupied Molecular Orbital ; HOMO)最低空軌道(Lowest Unoccupied Molecular Orbital ; LUMO)が反応に関わると考えます。HOMOは電子が入っている軌道の中で最もエネルギーが高い軌道であり、LUMOは電子が入っていない軌道の中でエネルギーが最も低い軌道です(下図参照)。このHOMOとLUMOを合わせてフロンティア軌道(frontier orbital)と呼びます。

 

Illustration

 

フロンティア軌道論の主張は、「求核試薬のHOMOと求電子試薬のLUMOのうち、それぞれの軌道の広がりが最も大きい部分が反応点になる」というものです。つまり、反応は単に電子が多い・少ないだけで決まるのではなく、電子の軌道によって決まるということです。

 

なお、「フロンティア(frontier)」は「境」や「前線」を意味しますが、この理論がこのように名付けられているのは「エネルギー的に境目の2つの軌道(HOMOとLUMO)が反応に関わる」ということによります。

 

ナフタレンの配向性とフロンティア軌道論

フロンティア軌道論を考えるため、具体例としてナフタレンを見てみましょう。ナフタレンの反応において、求電子試薬も求核試薬もβ位に比べてα位で置換反応しやすいです。これは電子密度で反応性を考える電子論では説明できません。ちなみにα位、β位は以下の通りです。

もちろん、ここだけではなく、分子の対称性からそれぞれ4つずつ存在します。念のためナフタレンの静電ポテンシャルマップ(molecular electrostatic potential)を調べると、

となります。しかし、これでは求電子試薬も求核試薬もβ位に比べてα位で置換反応しやすいということについて、先に述べたように、電子論では説明ができません。

 

ここでHOMOとLUMOを見てみましょう。等電子密度表面(Isosurface Value)の値を0.0100にすると、ナフタレンのHOMOとLUMOは

HOMO

LUMO


となります。ただし等電子密度表面とは、ある一定値の電子密度である部分をつないだものです。要するに等高線を多次元にしたものであり、等高面とも言えます。

 

さて、上の2つの図を見てα位とβ位における広がりの大きさの違いが分かるでしょうか。分かるような分からないような、といったところでしょう。考えやすくするにはどうすればよいでしょうか。

 

一旦、等電子密度表面及び等高線の性質を考えましょう。山を例に挙げて考えると、山を様々な高度(分子でいうところの電子密度)で切断した面積は、低い部分は大きいし、高い部分は小さいです。さらに2つの山を比べたとき、一方の低い部分の面積が大きいからと言って、高いところもそうだとは限りません。これは尖がった山と平べったい山を考えれば分かると思います。この話から電子密度が低い部分を見ていて分からなければ、高い部分を比べてやればよいことが分かります。なので、等電子密度の値を上げてみましょう。

 

等電子密度表面の値を0.0800としてやると、HOMOとLUMOは

HOMO

LUMO


となります。これを見れば、どちらにおいても軌道の広がりはβ位よりもα位において大きいことがはっきりと分かります。よってフロンティア軌道論より求電子試薬も求核試薬もα位で置換反応しやすいのは、α位のHOMOとLUMOの広がりが大きいからであると言えます。

 

3つの疑問

フロンティア軌道で反応性を考えてきましたが、「HOMOとLUMOが~」と言っても、「何で?」となるでしょう。そこで、この節ではよくある疑問に答えていくことにします。

なぜ境(フロンティア)のHOMOとLUMOを考えるのか

電子の入った軌道と、電子の入っていない軌道の中で、HOMOとLUMOが最もエネルギー的に近いからです。エネルギー的な距離が大きければ電子は軌道の中に留まったままですが、近いところに空軌道があれば電子が空軌道に流れ込むことができます(これを非局在化といいます)。非局在化をすることで、エネルギーは低下し、安定となります。

 

「非局在化でなぜエネルギーが下がるのか」という疑問ですが、これは一次元の箱の中の電子を考えれば分かりやすいでしょう。長さがaの箱の中の電子のエネルギーは次のように表されます。

$$E_n=\frac{n^2\pi^2\hbar^2}{2ma^2} $$

エネルギーは箱の長さaの2乗に反比例しますので、aが大きくなる、すなわち電子の移動できる空間が大きくなればエネルギーは減少するということです。

 

非局在化の安定化について、詳しくは「なぜ非局在化で電子は安定化されるのか」をお読みください。

 

なぜ軌道の広がりが大きいほど良いのか

軌道の広がりというのは少しあやふやな言葉であり、正しくは「電子の分布確率が高い空間が広い」ということです。「軌道」というのは日本の歴史的な使い方ですので、オービタル(orbital)という言葉を今後は使います(orbitalはorbitっぽいものという意味)。

 

電子の密度分布が広がっているほど、HOMOとLUMOのオービタルが重なりやすく、HOMOの電子がLUMOに流れ込みやすくなります。先ほどはエネルギー的な距離を考えましたが、ここで考えるべきは空間的な距離です。エネルギー的な距離と空間的な距離が近いことで、HOMOの電子はLUMOに流れ込みやすくなります。

 

なぜ位相が同じでなくてはならないのか

結合が生じるにはHOMOとLUMOが重なるだけでなく、さらにオービタルの位相が同じでなくてはなりません。これは電子の波動性に基づきます。位相が同じだと強め合って結合します。反対に位相が異なると弱めあって反結合性となります。

 

熱力学的支配と速度論的支配

さて、上で「α位の方が反応性が高い」と言いましたが、ここで注意しなければならないことは、フロンティア軌道論は速度論(kinetics)的、すなわち反応のし易さを示すだけであり、熱力学(thermodynamics)的な安定性を示すものではない、ということです。なので、ナフタレンの場合、「いかなる条件下でもα位で全て反応するわけではない」のです。生成物の中には勿論、β位置換生成物も含まれるし、反応条件を変えればβ位置換生成物の方が主生成物となることもあります。

 

一般に低温・短時間の条件下では速度論が優先され、速度論生成物(kinetic product)が主生成物となります。一方、高温・長時間の条件下では熱力学が優先され、熱力学生成物(thermodynamics product)が主生成物となります。これらが一致することもありますが、今回は異なります。したがって低温下ではα位置換生成物が主生成物となり、高温下ではβ位置換生成物が主生成物となるのです。

 

分かりづらいと思うので、エネルギー関係のグラフを以下に示します。

多環芳香族炭化水素の他の例

アントラセン (anthracene)

さて、多環芳香族炭化水素に関連して、アントラセンはどこの反応性が大きくなるでしょうか。等電子密度表面の値が0.0100の場合、HOMOとLUMOは

HOMO

LUMO


となります。等電子密度表面の値を0.0800とすると、HOMOとLUMOは

HOMO

LUMO


となります。よって、アントラセンは分子の中央の反応性が高いことが分かります。

 

フェナントレン(phenanthrene)

最後にフェナントレンを考えましょう。等電子密度表面の値が0.0100の場合、HOMOとLUMOは

HOMO

LUMO


となります。等電子密度表面の値が0.0700の場合、HOMOとLUMOは

HOMO

LUMO


となり、フェナントレンは9, 10位、3, 6位、1, 8位の順で反応性が高くなることが分かります。

コメントをお書きください

コメント: 22
  • #1

    プラスチック関係 (日曜日, 20 2月 2022 10:06)

    ダイセルイノベーションパークの久保田邦親博士(工学)のCCSCモデルはサステナブルなエンジニアリングに対する壮大なメッセージのようにも聞こえる。

  • #2

    メタルコンタクト (月曜日, 07 3月 2022 13:43)

    極圧添加剤がグラファイト層間化合物になるというトライボロジー理論ですね。

  • #3

    プラントエンジニア (木曜日, 10 3月 2022 23:16)

    わたしは博士の材料物理数学再武装にイリヤ・プリゴジンの目指した非平衡熱力学の延長線上を見たような気がする。

  • #4

    ボールオンディスクマン (日曜日, 13 3月 2022 22:04)

    SLD-MAGICは、もともと金型材料としてかいはつされたようですか、自動車部品や機械歯車にもいいようです。

  • #5

    エンジン関係 (金曜日, 01 4月 2022 13:08)

    ダイヤモンドは永遠のゼロが理想なんですね。

  • #6

    ラマン分光ファン (水曜日, 04 5月 2022 17:13)

    新たなリニアモーターカーの発想ができるかもしれませんね。

  • #7

    日本経済新聞ファン (金曜日, 08 7月 2022 20:34)

    CCSCモデルってノーベル化学賞候補なんでですね。

  • #8

    アウフヘーベン (土曜日, 09 7月 2022 16:53)

    マテリアルズインフォマティクスの先駆者らしい。

  • #9

    化学工学関係 (日曜日, 31 7月 2022 23:58)

    原子論と連続体力学の簡単な歴史をSNSで読みました。力学がニュートン→アインシュタインという単純な認識ではないというのがわかりました。

  • #10

    ラマン分光ファン (水曜日, 17 8月 2022 21:15)

    材料強度学か、素晴らしい基礎工学だと思います。

  • #11

    コミュニケーション (水曜日, 10 5月 2023 21:18)

    機械の摩擦界面現象の本質的な原理理論としてとても独創的なパラダイムシフトだと思います。

  • #12

    マルテンサイト (日曜日, 14 5月 2023 19:54)

    プロテリアル(日立金属)にいた時からボールオンディスクの権威といわれていた久保田邦親博士(工学)の研究業績ですね。

  • #13

    炭素結晶の競合モデルファン (火曜日, 23 5月 2023 09:29)

    トライボロジー研究のタコツボ組織的なところに横串力をあたえる理論ですね。

  • #14

    グリーン経済 (土曜日, 27 5月 2023 06:14)

    最近では実用性能として自動車関係の冷間のプレス技術でGPa越えが相次いで報告されていますね。翻って考えてみるとやはり、プロテリアル(旧日立金属)製のマルテンサイト鋼の頂点に君臨する高性能冷間ダイス鋼SLD-MAGICの登場がその突破口になった感じがしますね。今ではよく聞く人工知能技術(ニューラルネットワーク)を使ったCAE合金設計を行い、熱力学的状態図解析によって自己潤滑性を付与したことが功を奏した話は業界では有名ですからね。CAE技術もさらなる可能性に満ち溢れているということでしょうね。

  • #15

    CCSCモデルファン (金曜日, 02 6月 2023 13:20)

    自己潤滑性特殊鋼の境界潤滑メカニズムを極最表面分析を駆使しながら,解析した結果,境界潤滑のほぼ全貌を説明しうる基本モデルに到達した。それは摺動に伴って,潤滑油が分解し再合成された炭素の結晶体の構造により,摩擦特が支配されるというモデルで名称は炭素結晶の競合(CCSC;Competitive Cristal Structures of Carbon)モデルで提案しており,化学反応を制御することで摩擦特性が変化することを報告する。さらには高面圧トライボシステムへの展望についても述べる。(著者抄録)J-GLOBAL

  • #16

    ラマン分光 (金曜日, 02 6月 2023 21:58)

    チャンピオンデータをきちっと科学的に解析しCCSCCモデルとして報告されているのは賞賛に値します。

  • #17

    ストライベック (月曜日, 10 7月 2023 00:29)

    なんか経営トップになって汚名を払拭したらいいのに。

  • #18

    マルテンサイト (金曜日, 11 8月 2023 00:31)

    そうですね。ベインキャピタルにとっても再上場が早まるのはメリットがあるのかもしれません。東京本社ではきっと議論が行われているんじゃないんでしょうかね。

  • #19

    フリクション・パイロット (日曜日, 24 9月 2023 13:49)

    SLD-MAGICって結構、耐熱性もあるので航空機用ベアリングとか、自動車のエンジンバルブシートあたりにも使えそうですね。

  • #20

    ガンダムファン (月曜日, 30 10月 2023 14:51)

    潤滑油などの性質によって機械の大きさが決められてきたのか。

  • #21

    AGRIT (月曜日, 06 11月 2023 14:54)

    とりあえずジャーナル軸受が王道じゃない?

  • #22

    CO2排出削減関連 (火曜日, 02 4月 2024 16:30)

    最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。